翻訳

『ユゴスよりの黴』プロローグ三篇

一、魔書 それは暗くて埃ぶかく、埠頭のそばの 古い小道のいくすじも絡みあうなかに見失いがちで、 海のうち揚げた胡乱なものらの異臭が届き、 西風の煽りに霧の妖しくうずまく場所にあった。 霧にけぶり、霜に曇った菱形の小窓硝子ごしに、 見えたものはた…

『真夜中のソネット』より

鐘声 ドナルド・ウォンドレイ 夜すがらにわれはも聞きぬ、いんいんと鐘のなる音、 夜すがらにわれはも聞きぬ、さがなごと告ぐる律動、 たぎち沸く海みづからのこもりねの響きをよぎり、 沈みたる都市より鐘のおごそかにとよもす声を。 水うねり、ひとつの山…

翻訳における文体選択の悩み

ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』(大瀧啓裕訳・学研)の訳者解題より。 「この『ユゴスの黴』において注目すべきは、ラヴクラフトの小説、ことに後期の創造神話の佶屈した文章とは截然と異なる、実に簡明な文章で書きつづられていることである。ソ…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「ウルタールの猫」

ウルタール、とはスカイ河を越えたところにある村の名前、そこでは何ぴとも猫を殺すこと一匹とて罷りならず、と言われるのであるが、炉辺に坐(ましま)し喉ころろかし給う猫君(ねこぎみ)をつくづく見たてまつればこそ、小生もげにさもありなんと首肯(う…

"Fungi from Yuggoth" sonnet XXI

ニャルラトホテプ ハワード・フィリップス・ラヴクラフト しかして 終に 玄奥なる埃及《エジプト》よりはきたりぬ 農工民《フエラーヒン》の稽首《ぬかづ》き拝する尋常ならざる黝《くろ》き存在《もの》 寂黙痩形《じやくもくそうぎやう》 さてもまた謎めく…

先師追懐

ステフアーヌ・マラルメを偲びて フランシス・ヴィエレ=グリファン 誰びとか呼びかけて、「師よ善哉《ぜんざい》!ひと日の黎明《いなのめ》地にきざし、黎明ここにまた相不変《あひかはらず》の仄じろさ、 師よ、われ窓を開け放てば、ひむがしの斜面《なぞ…

敗けざるもの

INVICTUS ウィリアム・アーネスト・ヘンリー 奈落をもどき闇々《やみやみ》と 極より極へ ひろごりて蓋《おほ》ひかぶさる夜の裡ゆ 何若《いかん》の神にまれ 感謝なしたてまつる まつろはぬ魂を賜りしわれは 境遇のあらけなき手には攫まれながら われ 経て…

『悪の華』中、「憂鬱と理想」より

姫のすべて シャルル・ボードレール 己《おれ》の屋根裏べやを、けさ、 とぶらひ来たる爪はじき、 悪魔《ぢやぼ》めが、腹に一物の ありげな面《つら》で、「知りたやな、 「姫が蠱惑を造りなす 数おびただしい美のうちで、 姫が五体の精妙を 黒、薔薇いろと…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「ニャルラトホテプ」

ニャルラトホテプ……這いよる混沌《カオス》のことを……わたしこそは最後の……譚《かた》ろう、耳か たむける虚空にむかって…… そもそもいつに始まったのか、定《しか》とは憶《おも》いだされぬがさかのぼること数ヶ月、世間全般 の緊張たるやもの凄く、政治的…

『王女の庭にて』より

淫欲 アルベール・サマン 淫欲……そは生命の樹にみのる死の果実…… 切歯《はがみ》なすまでに渇ゑたる願望の禁果。 倦怠の沙漠上に坐せる黄金《くがね》の吐火女怪《シメール》…… 夜と経年の色情ゆゑに躬《み》をこがす処子《をとめ》。 七《なな》重《へ》の…

『悪の華』中、「憂鬱と理想」より

亡霊帰来 シャルル・ボードレール 獅子の瞳《め》の流浪天使のごとくに かへり来たらむ、おん身が閨所《ねや》へ、 音《ね》もなくかたちも分明《ふんみやう》ならず、 夜《よ》影《かげ》の滑り寄るがごとくに。 しかして与へむ、か黝《ぐろ》のきみよ、 月…

天使と人間と 詩二篇

スティーヴン・クレイン 「かように行いしは道にかなわぬ」 天使が言った 「お前は花をさながらに生くべきなのだ 悪意は仔犬よろしくおぼえ 争うときも仔羊のように」 「それは違います」 と言ったのは なんらの畏怖も神霊に対して抱いておらぬ男 「道にかな…

『悪の華』中、「叛逆」より

沙殫連禱《サタンれんたう》 シャルル・ボードレール 烏乎《ああ》 爾《おんみ》、諸天使の中《うち》その賢と美と極まれりしを、 運命にこそ売《うらぎ》られ、かつは頌讃うばはれたまひし神よ、 於《ああ》 沙殫《サタン》、哀憐《あはれ》み給へ、ながな…

「そこばくのソネ」より

ステファーヌ・マラルメ 捷《か》ちさびにこそ遁避《のが》れたれ、美々しき自殺、 栄華の燠《おき》よ、血の泡沫《あわ》よ、黄金《くがね》、颶《ぐ》風《ふう》よ! 笑止なる哉、彼処《かしこ》にて、紫《し》丹《たん》の衣《きぬ》のひろげられ、 わが…

アッティスの想い出

サッフォー 一語《ひとこと》も あの娘《こ》は 寄せてくれなくなってしまった ほんとうにもう わたしは死んでしまいたい。 訣《わか》れのきわに、あの娘《こ》がしとど泣きぬれて 告げたことばは、「辛いけれど、わたくしたち さよならしなくてはなりませ…

エデンの蛇

甘誘者 ポール・ヴァレリー 委蛇たり、さなり蛇行なり、 誘《をこつ》るものが秘訣也、 この緩やかの所作よりも やさしき手管、他《た》にありや? 心得たり、わがゆく先は、 そこへと君を導かむ、 姦計ならめ、きみが身を 害《そこな》はむとの意図はなし………

薔薇詩二篇

疾める薔薇 ウィリアム・ブレイク あはれ薔《さう》薇《び》よ疾《や》める哉。 ぬばたまの夜、吹きおらぶ あらしのなかを翔りゆく 視えもわかざる蠕虫《むし》ありて、 緋のよろこびの臥《ふし》床《ど》よと 爾《きみ》をみそめつ。さてはその 冥《くら》…

ライオネル・ジョンスン詩二篇

一友 ライオネル・ジョンスン その魂《こころ》、ヴェルギリウスの雪白《せつぱく》を さながら具せり――躬《みづか》らをよく制禦なし、 優にして、はた恬謐《てんひつ》ぞ喜びなる 上代《あがりてのよ》の聖《ひじり》さび地上を歩むもうべなれや。 彼に見…

聖母詩二篇

頌歌 エドガー・アラン・ポオ 永貞童女聖瑪《マ》利《リ》亜《ア》! きよらなる高《たか》御《み》座《くら》より、おん眼《まなこ》見むかはせ給へ、 罪びとが爾《きみ》への供犠《くぎ》としてたてまつる 切《せち》なる祈り、さてはまた虔《つつ》ましき…