玖羽(Kuhane)さん訳「伊比紱(Ibid)」の件

 玖羽さん訳「伊比紱(Ibid)」(2011-12-12 01:04:12)→ http://t.co/wlrMCn1Y
 sbiacoさん訳「イビッド」(2010-09-21)→ http://t.co/x7nFSlKe
 SerpentiNaga訳「イビッド」(2010-09-21 20:50)→ http://t.co/ihufPPPm
 "Ibid" by H. P. Lovecraft → http://t.co/u6GhXUY8


(玖羽さん訳)將伊比紱誤認為《詩人列傳》(Lives of the Poets)的作者,可算是一個廣為流傳的錯誤。就連很多有教養的人也抱持著這種錯誤觀點,所以我認為有必要在這裡做一下澄清。順便說一句,本文中的一切常識性錯誤均由Cf.,即康弗(Confer)負責。另一面,伊比紱的傑作,就是那著名的《前揭書》(Op. Cit.),這本書將湧動在希臘−羅馬式表達法中的意義深刻的暗流作了歸納性的總結,所表現出的敏銳值得欽珮,攷慮到作者在撰寫這部著作時已是垂垂老矣,這種敏銳就更加令人驚訝。


(SerpentiNaga訳)イビッド Ibid をかの『詩人列伝 Lives of the Poets 』の著者と考える錯誤は、これに逢着することあまりに屡々にして、ひとかどの教養を積んだ、とうそぶく人びとの間にも多々見うけらるるほどのものなれば、ここに正しておくに値しよう。一般常識の問題として弁えてしかるべきである、この作品の文責は Cf. ことコンファー Confer に帰す、などというがごときは。さて一方イビッドのものした傑作とはなにかと申せば、これ即ち世に隠れもない『前掲書 Op. Cit. 』 にほかならず、同書においてグレコ=ローマン的措辞の意味ぶかい暗流が、ただ一度きりの明確なるかたちを結んでさらけ出されたのであり――しかも、賛嘆措くあたわざる鋭さを帯びているにもかかわらず、イビッドの書いたものとしては驚くほど後期の作なのであった。


(原文)The erroneous idea that Ibid is the author of the Lives is so frequently met with, even among those pretending to a degree of culture, that it is worth correcting. It should be a matter of general knowledge that Cf. is responsible for this work. Ibid’s masterpiece, on the other hand, was the famous Op. Cit. wherein all the significant undercurrents of Graeco-Roman expression were crystallised once for all—and with admirable acuteness, notwithstanding the surprisingly late date at which Ibid wrote.

(玖羽さん訳)當維提吉斯(Vitiges)篡奪了東哥特王位的時候,伊比都斯也遭到貶黜,一時身陷囹圄;但隨著貝利撒留(Belisarius)率東羅馬軍隊入城(12),他很快就得到了恢復自由和榮譽的機會。在哥特軍隊圍睏羅馬期間,他一直英勇地協助守城,其後又跟著貝利撒留的鷹幟,前往阿爾巴(Alba)、波爾多(Porto),甚至肯圖切拉(Centumcellae)。


(SerpentiNaga訳)ヴィティゲス Vitiges による東ゴート王位簒奪のさい、イビドゥスは貶黜せられて一時囹圄の身となるも、ベリサリウス Belisarius ひきいる東ローマ帝国軍の入城(12)で程なくおのが自由と栄誉とをとり戻す機がえられた。ゴート軍の、一年あまりにおよぶローマ囲攻期間をかれは防衛軍のため勇猛果敢に戦いぬき、さてそののちはベリサリウスの鷹の旗じるしに従ってアルバ Alba やポルト Porto 、はたまたケントゥムケラエ Centumcellae へと赴いた。


(原文)Upon the usurpation of Vitiges, Ibidus fell into disgrace and was for a time imprisoned; but the coming of the Byzantine-Roman army under Belisarius soon restored him to liberty and honours. Throughout the siege of Rome he served bravely in the army of the defenders, and afterward followed the eagles of Belisarius to Alba, Porto, and Centumcellae.

(玖羽さん訳)提貝浬烏斯(Tiberius)和莫浬斯(Maurice)兩位皇帝則對他的高齡和不朽貢獻深表敬意,——特別是莫浬斯,伊比都斯把他的傢譜上溯到古代羅馬,儘管他實際上生于卡帕多奇亞(Cappadocia)的阿拉比蘇斯(Arabissus)。在詩人101歲的時候,莫浬斯為了表彰他的貢獻,指定他的著作為帝國脩辭學校的標準教材,這一榮譽讓老脩辭學傢的心胸無法承受,他很快就在靠近聖索菲亞教堂的私邸中平靜地去世了。時為公元587年,九月的卡倫戴日(Kalends)的前六日(14),享年102歲。


(sbiacoさん訳)ティベリウスおよびマウリキウス両皇帝は彼の非常な高齢に敬意を表し、彼の名が不滅のものになるよう大いに取り計らった──ことにマウリキウスにしてみれば、イビドゥスの祖先を古代ローマの出自とするのが喜びであったが、じっさいのところイビドゥスの生れたのはカッパドキアのアラビスクスなのである。いまや齢百一に達した詩人の功をねぎらうべく、彼の作品を帝国内の学院の教科書に採用すると確言したのはマウリキウスだったが、この栄誉は高齢の弁論家の心臓には刺激の強すぎる負担だったらしい。はたしてイビドゥスは紀元587年9月1日の六日前に、聖ソフィア寺院の近くの自宅で安らかに息を引きとった。享年百二。


(SerpentiNaga訳)ティベリウス帝 Tiberius およびマウリキウス帝 Mauricius はイビドゥスの大齢に懇ろなる敬意をあらわし、「最後の生粋のローマ人」の名を不滅ならしむるにあたって貢献するところ大にして――とくにマウリキウス帝の貢献度たるや斜めならず、それはこの皇帝がおのれの族譜を上代ローマまで辿りうるをこそ喜びとしていたがゆえ、とは申せ自らはカッパドキア Cappadocia のアラビッスス Arabissus うまれであったが。イビドゥス百一歳の年その詩魂ある作品が、帝国内諸学堂の教本に採用確定せられたのもマウリキウス帝の計らいなれど、齢たけた修辞学者の心胸には過負荷のほまれとなったと見え、聖ソフィア寺院 Hagia Sophia にちかい自宅にて大往生をとげたのは、九月のカレンズ Kalends すなわち朔日まであと六日という日(14)のこと、年は五八七年かれ百二歳のときであった。


(原文)The Emperors Tiberius and Maurice did kindly honour to his old age, and contributed much to his immortality—especially Maurice, whose delight it was to trace his ancestry to old Rome notwithstanding his birth at Arabiscus, in Cappadocia. It was Maurice who, in the poet’s 101st year, secured the adoption of his work as a textbook in the schools of the empire, an honour which proved a fatal tax on the aged rhetorician’s emotions, since he passed away peacefully at his home near the church of St. Sophia on the sixth day before the Kalends of September, A.D. 587, in the 102nd year of his age.

(玖羽さん訳)斯塔佈斯在1661年送他的兒子塞魯巴別爾(Zerubbabel)去新英格蘭尋找時運(因為他認為王政復闢時期的氣氛對一個虔誠的年輕自由民不利),就在這時,他把“聖伊比紱”——不,厭惡天主教的斯塔佈斯更願依清教徒的說法稱他為“伊比紱兄弟”——的頭蓋骨給了兒子,當成一種驅邪的護符。在塞勒姆(Salem)登陸的塞魯巴別爾找了一個靠近鎮上水泵的地方,建了一間不大不小的房子,併把它放在挨著煙囪的碗櫃裡。他的夫人不僅對“每家碗櫃裡都有一個骷髏”這句俗語安之若素,甚至還把每晚跟頭骨接吻當成了一種義務。


(SerpentiNaga訳)さてスタッブズは、おのが息子ゼルバベル Zerubbabel を一六六一年、ニューイングランドにてひと旗揚げしむべく送りだした(と申すのも蓋し、王政復古の空気は敬虔なる自由民 yeoman のわこうどにとりて悪しきものと考えたゆえであったが)そのさい、この「聖者イビッド上人 St. Ibid 」の――いな、一切のカトリック的なるものを嫌忌した清教徒スタッブズの呼びかたでは「信徒イビッド大兄 Brother Ibid 」の――頭蓋骨をば、闢邪の宝具として息子にあたえたのであった。セイレム Salem へ上陸したゼルバベルがこれを安置たてまつったのは暖炉わきの戸棚のなか、町の揚水場ちかくに大きからず小さからぬ家を構えてのことであったが、「家ごとの戸棚に秘めた曝れこうべ Every family has its skeleton in the cupboard. 」という慣用句のもととなったかの一見無憂なる夫人のごとく、毎夜頭蓋骨への接吻を義務づけられていたかまでは詳らかにせぬ。


(原文)Stubbs, upon sending forth his son Zerubbabel to seek his fortune in New England in 1661 (for he thought ill of the Restoration atmosphere for a pious young yeoman), gave him St. Ibid’s—or rather Brother Ibid’s, for he abhorred all that was Popish—skull as a talisman. Upon landing in Salem Zerubbabel set it up in his cupboard beside the chimney, he having built a modest house near the town pump.

(玖羽さん訳)這頭蓋骨被藏在迪剋斯特的家裡,就是地處普羅維登斯北部,座落在現在的北主街(North Main Street)和奧爾尼街(Olney Street)交扠處的那幢宅子(18);然而在白人殖民者和印第安原住民的戰爭、即所謂“腓力王戰爭”(King Philip's War)中,納拉干西特人(Narragansetts)的酋長卡諾切特(Canonchet)于1676年3月30日襲擊了這幢宅邸。這精明的酋長一眼就看出頭蓋骨那莊嚴而高貴的特質,于是立即把它贈給了住在康涅狄格州,正在和他商談結盟的珮科特人(Pequots),以表誠意。4月4日,殖民者們抓住了卡諾切特併迅速將其處死,可伊比紱那質樸的頭蓋骨卻從此開始了輾轉流浪。


(SerpentiNaga訳)かくて貴き頭蓋はデクスター邸、プロヴィデンスの北部、現在の北メイン街 North Main Street とオルニー街 Olney Street との交叉部ちかくの家(18)の所蔵となっていたが、白人入植者とアメリカ先住民 American Indians との争い、いわゆるフィリップ王戦争 King Philip’s War のおりから、一六七六年三月三〇日同邸はナラガンセット族 the Narragansetts の酋長カノンチェット Canonchet の奇襲をうけ、目ざときカノンチェットは一見、この頭蓋の稀世にして森厳きわだかなるを認むるや、ただちにこれを同盟締結の交渉中であった相手、コネティカット Connecticut 在のピクォート族 the Pequots の一派に誠意のしるしとして贈った。四月四日、入植者らにカノンチェットが捕えられ速やかに処刑せられたのちも、なおイビッドの綾にかしこき顱骨は転々流浪をつづけるのであった。


(原文)It was in the house of Dexter, in the northern part of the town near the present intersection of North Main and Olney Streets, on the occasion of Canonchet’s raid of March 30, 1676, during King Philip’s War; and the astute sachem, recognising it at once as a thing of singular venerableness and dignity, sent it as a symbol of alliance to a faction of the Pequots in Connecticut with whom he was negotiating. On April 4 he was captured by the colonists and soon after executed, but the austere head of Ibid continued on its wanderings.

(玖羽さん訳)珮科特人業已在先前的戰爭中變得衰弱,因此無法給予正在遭受打擊的納拉干西特人任何支援。1680年,他們以兩盾的價格把這傑出的頭蓋骨賤賣給了奧爾巴尼的荷蘭毛皮商珮特魯斯·範·斯恰剋(Petrus van Schaack),這荷蘭人能讀懂頭骨上差不多被磨平的倫巴底小寫體(Lombardic minuscules)題詞,遂認定了它的價值(他對古文書學竟有如此高深的造詣,這或許可以從一個側面解釋新尼紱蘭毛皮商在十七世紀執北美牛耳的原因)。那幾不可見的、宛如尺蠖一般扭曲的文字,寫的正是“Ibidus rhetor romanus”(羅馬脩辭學家伊比都斯)。


(SerpentiNaga訳)ピクォート族は先のひと戦さで弱体化していたがゆえに、いまや酋長を失うの大打撃をこうむったナラガンセット族に対しなんらの支援もなしあたわず、畢竟意味のなかった進物品のその後はと申せば、一六八〇年、オランダ植民地ニューネザーランド New-Netherland はオールバニー Albany の毛皮商人、ペトルス・ファン・シャアク Petrus van Schaack の僅々二ギルダー two guilders 、すなわち二百セントばかりの出費にて確保するところとなったのであり、ファン・シャアクはこの著しくかたち秀でた顱骨に記されていた、ランゴバルド王国時代のミナスキュール草書体 Lombardic minuscules の銘文により価値のほどを認めたのであった(古文書学については蓋し、十七世紀ニューネザーランドの毛皮商人にとって欠くべからざる教養のひとつであった、と説明すれば宜しかろうか)。宛然尺蠖虫の這いうねるがごときその文字列は、薄れ消えかけていながらも次のとおり読みとられた――“Ibidus rhetor romanus (羅馬ノ修辞学者いびどぅす)”と。


(原文)The Pequots, enfeebled by a previous war, could give the now stricken Narragansetts no assistance; and in 1680 a Dutch fur-trader of Albany, Petrus van Schaack, secured the distinguished cranium for the modest sum of two guilders, he having recognised its value from the half-effaced inscription carved in Lombardic minuscules (palaeography, it might be explained, was one of the leading accomplishments of New-Netherland fur-traders of the seventeenth century).

(玖羽さん訳)最後,在一個命運之夜,一件非比尋常的大事發生了。玄妙的自然因靈魂的迷醉而震顫,它就像在這個“容器”所盛的飲料中攪起泡沫一樣,把高貴者貶落塵埃,將低賤者抬上高位——呵,看哪!當玫瑰色的黎明降臨、密爾沃基的市民們起床的時候,發現過去的草原已經變成了高地!整片廣闊的地區都被高高地抬起,經年埋藏在地下的奧祕終于重見光明。就在那裡,就在斷陷的車道之中,那通體純白、平穩地鎮座著的東西——那神聖的、有如執政官一般莊嚴的東西,正是伊比紱的頭蓋骨的穹頂啊!


(SerpentiNaga訳)かにかくてついに運命のある夜、尋常ならざる一大事件が発生した。玄妙なる自然が霊的恍惚にうち震え、従前かの「器」を満たせしこともある飲料の弾ける泡のはたらきのごとく、高貴なるものはこれをひき倒し低からしめ、下賤なるものはこれをひき上げうず高くならしめて――しかしてご覧ぜよ! 薔薇の指さすあかつきにミルウォーキー市民らが起きいでてみれば、なんと、草野原であったはずのあたりは高地と変じているではないか! 広漠として遥けくつづくその隆起のおぎろなさよ。いく年ものあいだ隠されてきた地底のアルカナ arcana 、極秘密がいまや明るみにさらされてあった。蓋し申すにやおよぶ、そこもとの裂けた車道のうちに全容をあらわしていたのである、白じろとして鎮もり、聖者然としておおどかにまた執政官らしく厳かに、壮観あたかも大伽藍のごときイビッドの頭蓋骨が!


(原文)and at last one fateful night a titan thing occurred. Subtle Nature, convulsed with a spiritual ecstasy, like the froth of that region’s quondam beverage, laid low the lofty and heaved high the humble—and behold! In the roseal dawn the burghers of Milwaukee rose to find a former prairie turned to a highland! Vast and far-reaching was the great upheaval. Subterrene arcana, hidden for years, came at last to the light. For there, full in the rifted roadway, lay bleached and tranquil in bland, saintly, and consular pomp the dome-like skull of Ibid!

(玖羽さん訳)S.T.約西(S.T.Joshi)的註解,譯自《洛伕剋拉伕特未收錄詩文集第二卷》(H.P.Lovecraft Uncollected Prose and Poetry II),死靈之書出版社(Necronomicon Press)出版,1980年


(SerpentiNaga訳)[S・T・ジョシ S.T.Joshi 註](S・T・ジョシおよびマーク・A・ミショー Marc A.Michaud 編『ラヴクラフト未収録詩文集第二巻 H.P.Lovecraft Uncollected Prose and Poetry II』(ネクロノミコン・プレス Necronomicon Press 、一九八〇年)より)

(玖羽さん訳)(10):486年,剋洛維率領法蘭剋族攻殺了“西羅馬帝國高盧行省”的最後一位統治者錫亞格浬烏斯(Syagrius)。


(SerpentiNaga訳)(10)四八六年にクローヴィス麾下のフランク族は、「西ローマ」帝国の属州ガリアの最後の支配者、シアグリウス Syagrius をうち破って殺した。


(原文)10. In 486 the Franks under Clovis defeated and killed Syagrius, the last ruler of "Roman" Gaul.

(玖羽さん訳)(18):“(約瑟伕·庫爾溫)……在奧爾尼街上買了一座屋邸,因此獲得了普羅維登斯的自由民資格。這座屋邸位于格浬高利·迪剋斯特(Gregory Dexter)家北鄰,就建在奧爾尼巷(Olney Court)——當時叫城鎮街(Town Street)[即主街]——以西的斯坦帕斯崗(Stampers' Hill)上。1761年,在此新建了更大的邸宅,該建築至今尚存。”——摘自洛伕剋拉伕特,《查爾斯·迪剋斯特·瓦紱事件》,第二部,第一章。


(SerpentiNaga訳)(18)「(註・ジョゼフ・カーウィンは)オルニー・コートの崖下にあたるグレゴリー・デクスターの家の北隣に地所を買い入れることで、プロヴィデンスの自由民の資格を取得した。住所は、現在のオルニー・コート、当時の名称でいえばタウン街(註・すなわちメイン街)の西、スタンバーズ・ヒルの上に建てた。一七六一年にいたって、おなじ敷地に、より大きな邸宅を建て直して、これがいまだに存在しているのだった。」(ラヴクラフト「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」(宇野利泰訳)、第二部第一章より)


(原文)18. Joseph Curwen's house was "at about the foot of Olney Street . . . on Stampers' Hill west of the Town Street [i.e. Main Street], in what later became Olney Court"; cf. The Case of Charles Dexter Ward, Part II, sec. 1.

(翻訳テクニックの一つに、訳注を割注や脚注の形でなく訳文自体にとけ込ませるという手段があります。因みに都筑道夫先生のお嫌いだったやり方ですがそれはさて措き、これの行われているのに気づかず「どうせ同じ原文なんだから」と、他人の訳文を自分の訳文にそのまま流用してしまったら大変、飛んだトラップを踏む羽目になるというわけ。ご用心ご用心。)