『王女の庭にて』より

 淫欲             アルベール・サマン


淫欲……そは生命の樹にみのる死の果実……
切歯はがみなすまでに渇ゑたる願望の禁果。


倦怠の沙漠上に坐せる黄金くがね吐火女怪シメール……
夜と経年の色情ゆゑにをこがす処子をとめ


なな帷帳とばりに秘めたる罪の夜光珠デイアマント……
火の中の火、血の中の血、われらが精髄中の精髄。


流民ボヘミアンの魔女がものなる地底の薬液……
脳髄なづきに巣くひ精力の源を絶つ水蛭すゐてつ


恭敬くぎやうせむ哉われ、噫、玄秘のきはみ、深遠の極み、
わが世に張られたる闇黒の大天幕なるおんみ、淫欲よ。


淫欲……そは華厳の高位にのぼる官能……
鬧酒狂歌オルギアの王冠……れんせんの面具。


神聖なる玫瑰まいくわい色の女人のはなひらく裸形らぎやう……
霊魂たましひをして啜り泣かしむる肉の天堂パラデイス


まどろましき夜気に靡ける丈長たけながの髪……
薫香のかぐろき咒禁……暗澹たる氤氳いんうん


淋漓たる流血の讃歌ほめうた涕涙ているゐや顫動や愛撫やの
陶然たる魔酔……いま悉く衰滅せる這般これら情懐わくなみ……


神経といふ神経への愛撫……果てしれぬ只管ひたすらの愛撫……
這般これらまなこ昏暈くるめくまでのながながしき愛撫。


こよなくあまき花々の奥処おくがなる音楽……漸々やうやう弱まりゆく調べ……
法悦の疲労つからしき弓に弾かるる沈黙のいと


くちびるよ、脣よ……えいる口吻くちづけ、咬む口吻のための脣、
底ひなき愛の臥所ふしどなる……於戯あはれ、死のごとき脣よ。


恭敬くぎやうせむ哉われ、噫、玄秘のきはみ、深遠の極み、
わが世の悲傷の天空そらなる紅き一星宿たるおんみ、淫欲よ。


淫欲……そは人骨裡に熟睡うまゐせる陰毒の妖蛇……
鋏刀けふたう先端きつさきのごとくとがりて鋭き色情。


恍惚の鈴鐸れいたく……焦燥の午夜を告げしらしむる警鐘はやがね……
夜闇の姉妹にして貞淑を嫉視する淫夢郎女スクブス


覚醒のいきどほろしき不眠症インソムニア荊棘いばら……
眠りの高き壁一面にうごめく奢灞都サバト漆喰画フレスコが


四竹よつだけの苛々しき拍子につれて開きかくるしや帷帳とばり……
坦塔勒斯タンタロスをして戦慄せしむる泡だち溢るる酒盃さかづき


えあがる氷塊……こほりつく火炎……
らくの野獣ぎたなくねむれる櫳舎ろうしや


恭敬くぎやうせむ哉われ、噫、玄秘のきはみ、深遠の極み、
わが世のかぎりまで凝視する貪婪たんらんなるおんみ、淫欲よ。


淫欲……そは熱帯の奔放なる幻想……
おごりかに羽毛を飾り勇ましく槍かまへたる蛮族の王侯。


未曾有なる恆河ガンジユの岸べの翡翠宮殿みあらか……
おぎろなき園林……埋伏せる黄金くがね……薫香満ちみちたる湖水。


酷熱の赤道のおそろしき芽生月ジエルミナル……
斑蝥カンタリデスの群れ飛ぶ金色こんじき寂寞じやくまく


羊毛と刺激強き香気とよりもたらさるる眩暈げんうん……
くさぶかき毒性の沼地を照射てらす血のいろの月。


恭敬くぎやうせむ哉われ、噫、玄秘のきはみ、深遠の極み、
わが世のおそれ畏むべき闇黒の偶像なるおんみ、淫欲よ。


淫欲……そはおも蒼じろき瘋狂の該撒カエサル冠冕かんむり……
髪紅葉色にして長軀なる高級娼婦ヘタイラ項鍊くびかざり


希臘猿楽ミイム女王によわう……節奏リトム舞踏ダンスの女王……
垤加蕩斯デカダンスとよぶらんせる黄金くがね凱旋門


猛き虎と華婉くわゑんなる大理石とに囲まれしさなか……
放奢淫逸の蘇丹スルタンがむすぶ駭愕おどろかしき悪夢ゆめ


血腥ちなまぐさく湿れるはな……愉悦と責め折檻と……
萼よりの息吹の裡にいとあまやけくにほへる死。


きよ炎々たるさなか横笛わうでう鐃鈸ねうはちや琵琶……
墳墓おくつきの緑色燈に花妻はなづまびてなづさふ死。


東方の帝国の落日……煌々きらぎらしき封神賛揚アポテオーシス
荘厳にして崇高なる過度興奮症エレテイズムの祭祀。


燐火の技術たくみによりてほるもかに閃きいづる、
最後の饗宴うたげ……最後の嘆息といき……死前いまは咽喉のどのかそけき嘶噎ころろき


恭敬くぎやうせむ哉われ、噫、玄秘のきはみ、深遠の極み、
わが世を燦たる光に満たす金色こんじきレプラなるおんみ、淫欲よ。


淫欲……そは煩悩の胸にこもれる灼熱の気息いき……
情念、すなはち深紅の大海おほわだの上なる粛然たる顫動……


らくの葡萄園のつはりて房おもき収穫物……香味神饌アムブロシア。 
狂ほしき性のほむらを煽りたつる肉感の美酒うまざけ


邪恋の痛みを止むる香膏にほひあぶら……怨恨を解きほごす甘露……
踉々らうらうとこころの路を辿りゆく巡礼の徒の休泊所。


泡影の儚きよりおこる久遠の震撼ふるへ……
はしりゆく吐火女怪シメールの水かひなる迸泉はうせん


煢独けいどくのすがる胸乳むなさき……懦夫だふなけなしなる胆勇……
ぼく鴉片丁幾アヘンチンキ……レプラ病みを慰安なぐさむるいぬ


燥吻さうふんのせちに求めやまぬ絶対無尽の水甕みづがめ……
健者の秘めたる弱点よはみ……病者の知られざる強所つよみ


午夜の後悔の殺め手なる雄性の薬草エルブ……
死せる酒客の口をもふたたび開かしむべき仏狼瓷フラスコ


狂歓の外海そとうみへと出航して舳先へさきも高き、
無辺際なる懐郷ノスタルジアの豪奢をつくせる単桅帆船……


鼻孔をふくらめ毛をさか立て、全速疾馳、
虚無へ向ひて驀地まつしぐらなる騎士のうま……


たぎちわく硫磺ゆわうの海のそこ……なほも炎上しつづくる
姦淫の所多瑪ソドムの花苑……背徳の蛾摩拉ゴモラの角楼。


錯迷の行路のはたて、うち仰ぎみる苦悶の天空そら……
ああ殉教……ひしがれし心にあふるる法悦のなみだ


火焰のさなか醜穢しうわいなる儀式によりて、
魔法行者が永劫無窮の存在に請ひむ漆黒の塔……


死を致す大罪なる貪食たんしよく……口渇と飢餓……
底ひ知られぬ縕淵うんえん……翳あらしめぬ太陽……えこそ止まらぬ旋渦。


淫欲よ……神経の中の神経、酸の中の酸なるおんみ
淫欲よ……捨身しやしんぎやうなる咒はれし窮極いやはての恋愛よ。


心身一如をめざす痙攣……絶対の裡なる婚姻よ……
淫欲よ……世界の終局にして周期の完了なるおんみ


黄金くがねと鮮血の童女せいどうによ……解悶の聖童女……
永世童身なる聖童女……狼呑らうどんえんの聖童女……


情炎の都府みやこ……勒忒レテの迷魂湯……くろがね鑽錐さんすゐ……
服咒の童女せいどうによ……地獄の諾脱爾達摩ノートルダムよ。


恭敬くぎやうせむ哉われ、噫、玄秘のきはみ、深遠の極み、
わが世に君臨する不朽不滅の女帝なるおんみ、淫欲よ。


Albert Samain - Luxure
(Kevin Germainの英訳
http://www.oocities.org/zeena_110_net/luxure.html に拠る)