クトゥールー神話

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第五番

帰 郷 邪霊《ダイモーン》の曰く われを家郷へつれ行くと蒼じろく陰影《かげ》多《さは》なる地 わが記憶になかば残る地へ憶ひおこせば 階梯と露台とを備へし高みは天風の梳《くしけづ》る大理石《なめいし》の欄杆に囲まれ将《は》たや 幾《いく》哩《マイ…

F・B・ロング未収録詩集『闇なす潮流』より

インスマス再訪 フランク・ベルナップ・ロング ひょっとすると逢えるような 気がしてはいた かれに 黒い波止場が 闇なす潮流を睨みおろし いびつに歪んだ家なみが 延々どこまでもうち続くこの町で 謐かなこと 淀んだ池のなか 水草をつつく鯉とひとしく 歩き…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第四番

見憶え めぐり来ぬ 再びかの日 当時われ幼な児にして まさに視き――唯ひとたび――古樫ならぶその窪地 狂気に蝕まれたる姿こそめかしきものどもを かき抱き息づましむる 地の蒙霧ゆゑに灰色なりき さながらに同じかりき――莽々と草のはびこる 祭壇に彫りきざまれ…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第六番

古燈具 われらがその燈具を見いでしは 懸崖の洞穴 内にテーベ神官のひとりだも読みえぬしるし刻まれ 慄然たるヒエログリフもて警告をこそ発せりしか 山洞より 地上に生きとし生ける全被造物へと ほか何もあらざりき――唯 その真鍮の器ひとつのみ 好奇そそる燈…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第十一番

深井戸 農夫セス・アトウッド 齢八十をすぎて試みき 家の戸口にほど近き深井の底を究めむとて 若人エブひとりを助手に 潜りに潜りゆくことを われら笑ひ 翁のただちに正気づかむを希ひしに 豈はからむや エブさへも狂気と化して戻りぬれば ひとびとこれを郡…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第十三番

へすぺりあ なみ聳ゆる尖塔や烟筒 け怠きこの星球より 今しも飛びたたむかとみゆるその彼方に炎々たる 冬の落日はひらく也 ある忘られしひと年の 神さびし荘厳と聖き願望とへの大門の数々を 期待にたがはぬ諸々の驚異火と燃えさかり 冒険を孕み はた畏怖に染…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第三十二番

疎隔 男ありき その肉体は不動堅固にして 暁ごと 違はずつねの処にあるを自ら確かむるなれど その幽体は愛したり 夜ごと夜ごとに離脱して 超常の諸世界や諸深淵をば翔けめぐらふを ヤディス星を視てきたるも なほ理性を保ちつつ グーリック帯よりつつがなく…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第三十一番

棲息者 バビロン未だあたらしき時 そは既に年ふりたりき たれか識る 塚のしたなるその眠りの幾久しさ 終に われらが円匙の掘りあつるところとはなり 再びすがた顕はしたる花崗岩の石ぐみ 鋪道幅ひろくして 基なる壁もまたおぎろなく 崩れつつある石床 毀れや…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第二十七番

上古の燈塔 冷けく朧ろにて肉眼に捉へがたき星々のした 寒風吹きざらしの岩峰 荒涼とつらなり聳ゆるレンより 薄暮どき 唯ひとすじの光線の投ぜらるるあり 青く杳けきその光条に哀訴祈願なす牧羊の徒 口ぐちに(さも訪れてきたるかのごと)噂すらく 光源は石…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第二十五番

聖蝦蟇寺 「こころせよ 聖蝦蟇寺の破れ鐘のこゑ!」 その叫び 幾星霜のふるき夢眠れる河の南 冥々として捉へがたき紆余曲折の迷宮をなす 乱れ小路に飛びこみし われの耳にひびきぬ 叫びしは 彎腰襤褸の胡散にこそめく老体なれど 蹣跚きつもよぎり去ること閃…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第二十三番

蜃気楼 識らず それの経て実在したるものかは―― 糢糊として時のながれを漂へる失はれし世界―― しかも視ること屡々なり 紫いろに霧らふそれを とある漠たる夢の背びらにかぎろふそれを 奇しくならび立つ塔 妖しくささら波する河川 驚異にみてる迷宮 かがやき…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第十八番

インの庭園 苔むせる堂塔ならび立つうちに聳ゆる 天穹へ達せむばかりの古さびし石の塁壁 けだしその彼方 花咲きほこり 鳥や蝶や蜜蜂はばたく 段なすつくりの庭園の隠れてあらむ と惟はれき 遊歩道も通へるならむ 神殿の庇のかげ映す 水ぬくき蓮池ごとに橋も…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト作『ユゴスよりの黴』 ソネット第二十番・第二十二番

夜 鬼 いかんの墓窟より爬《は》ひづるとこそえ識らねど 夜夜《よるよる》にわれは見るよ その護謨《ゴム》めける奴ばらを 黒色にして角のあり 痩躯にうすき膜質の翅《はね》 ふた叉の邪《まが》し倒棘《さかとげ》生えたる尾ある奴ばらを 奴ばらは陰風《き…

悪夢の這いよる夜

(一九二〇年十二月十四日附ラインハート・クライナー宛ラヴクラフト書翰より抜萃。アーカム・ハウス刊『ラヴクラフト書翰選集第一巻』・書翰番号九十四) 「ニャルラトホテプ」は悪夢だ――ぼく自身が実際にみた幻夢で、はじめの一節は完全に目が醒めてしまう…

ファーンズワース・ライト編集長お気に入りの一篇

祝祭 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト 地には雪あり 谿間に冷気あり 荒原のうへ 如法暗夜の幽闇は 黒ぐろとこそわだかまれ 丘の頂きに炬火ほの見ゆるは 張られたるめり 不浄にして古きうたげの 雲間に死あり 夜陰におそれあり 森のなか 黴の被ひて白き…

H.P. Lovecraft "Fungi from Yuggoth" sonnet XIX

鐘鐸 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト 年年にわれ聞きぬ 黒《かぐろ》き午夜の風のかすかに 遠処《をち》よりつたへ来る鐘鐸のふかく沈めるその音韻《ひびき》 从前《かつて》看見《みと》めえし尖塔のいづれより発《おこ》るにもあらず ただ 一《と》…

『ユゴスよりの黴』プロローグ三篇

一、魔書 それは暗くて埃ぶかく、埠頭のそばの 古い小道のいくすじも絡みあうなかに見失いがちで、 海のうち揚げた胡乱なものらの異臭が届き、 西風の煽りに霧の妖しくうずまく場所にあった。 霧にけぶり、霜に曇った菱形の小窓硝子ごしに、 見えたものはた…

『真夜中のソネット』より

鐘声 ドナルド・ウォンドレイ 夜すがらにわれはも聞きぬ、いんいんと鐘のなる音、 夜すがらにわれはも聞きぬ、さがなごと告ぐる律動、 たぎち沸く海みづからのこもりねの響きをよぎり、 沈みたる都市より鐘のおごそかにとよもす声を。 水うねり、ひとつの山…

翻訳における文体選択の悩み

ラヴクラフト『文学における超自然の恐怖』(大瀧啓裕訳・学研)の訳者解題より。 「この『ユゴスの黴』において注目すべきは、ラヴクラフトの小説、ことに後期の創造神話の佶屈した文章とは截然と異なる、実に簡明な文章で書きつづられていることである。ソ…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「ウルタールの猫」

ウルタール、とはスカイ河を越えたところにある村の名前、そこでは何ぴとも猫を殺すこと一匹とて罷りならず、と言われるのであるが、炉辺に坐(ましま)し喉ころろかし給う猫君(ねこぎみ)をつくづく見たてまつればこそ、小生もげにさもありなんと首肯(う…

"Fungi from Yuggoth" sonnet XXI

ニャルラトホテプ ハワード・フィリップス・ラヴクラフト しかして 終に 玄奥なる埃及《エジプト》よりはきたりぬ 農工民《フエラーヒン》の稽首《ぬかづ》き拝する尋常ならざる黝《くろ》き存在《もの》 寂黙痩形《じやくもくそうぎやう》 さてもまた謎めく…

クトゥルー神話朗読シリーズ

えー、少し前からパンローリングなる会社が、翻訳(研究)家・大久保ゆうさんの新訳によるラヴクラフト作品のオーディオブック数点をWeb通販しており、気になってはいたのですが、つい先日また、「ナイアルラトホテップ」「ダゴン」「宴」の三篇の朗読のダウ…

ブラヴァツキーを読まなかった男

ラヴクラフトは自身の宇宙年代記的神話世界を構築するにあたって、ブラヴァツキー夫人の『ドジアン(ジアン)の書』(『シークレット・ドクトリン』に含まれる)から直接少なからぬ要素を借りてきている、というのが長らく通説となっていたが、ダニエル・ハ…

神の匣 The God-Box

霧の都ロンドン。午後。 若き考古学の徒、キャラヴェル君はセインツベリーへ行って帰ってきたところ。ストーンヘンジからの出土品で、博物館に展示されていた「神の匣」を、自分の造ったレプリカとすり替えてきたのでした。貴族で金持ちのコレクターに売って…

ラヴクラフトとハッセ

ヘンリー・ハッセ(ハーセ)のクトゥールー神話作品「探綺書房(本を守護するもの)」は、『ウィアード・テールズ』の一九三七年三月号に掲載された。ラヴクラフトが亡くなったのは同年の三月十五日だった。一見、両者のあいだには不幸な擦れちがいが生じて…

ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「ニャルラトホテプ」

ニャルラトホテプ……這いよる混沌《カオス》のことを……わたしこそは最後の……譚《かた》ろう、耳か たむける虚空にむかって…… そもそもいつに始まったのか、定《しか》とは憶《おも》いだされぬがさかのぼること数ヶ月、世間全般 の緊張たるやもの凄く、政治的…