ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「ニャルラトホテプ」
ニャルラトホテプ……這いよる
たむける虚空にむかって……
そもそもいつに始まったのか、
の緊張たるやもの凄く、政治的・社会的な大変動のおりから、追いうちをかけるかのさま
に覆いかぶさった前所未知の不安。それはゆゆしい肉体上の危険、あまねく及びありと
あるものを巻きこむ危険、かくのごときはけだし夜の、もっとも
像しえまいというほどの危険、に対しての不安だった。 おもいおこせば人々は、蒼ざめ
苦悩にみちた面もちで歩きまわっては、 警告やら、予言やらを
うしたことばを敢えて
りとてなかった。
く深淵より吹きいでた
らせた。季節のうつろいは、魔性のものがこれに手をくわえたかとばかり−−秋にして
気味わるくも暑熱いっかな去りやらず、誰しも全世界、いな、ことによると全宇宙がいま
や既知の神々ないしは諸力の支配下になく、未知の神々ないしは諸力に支配されてい
るのではあるまいかと感じたのだ。
さてもこのような時だった、ニャルラトホテプが
か、だれひとり
ことができないのだ。 かれは言った、 自分は垂れこめること二十と七世紀におよんだ
宣を耳きいたと。文明国を歴訪しては、つねに
も
身長躯で、
弁じ、公演会もひらいたが、それには観客をして
名声を過度なまでに高めるちからがあった。ぜひともニャルラトホテプに会うべし、ひとび
とは互いにかく勧めあい、身をわななかせた。しかしてニャルラトホテプ
失われた。
ほど社会問題となった
止できたらばよいにとさえ思われてきた。そうできたならば、橋々の下ひそやかに
がれるみどりの
塔のむれやに、 蒼白いあわれみの光を投ずるおりの月が、 おちこちの街よりあがる悲
鳴によって
ニャルラトホテプがわが街−−巨大で、年ふりていて、無数に犯罪のおこる
街−−に来た時のことをわすれはしない。かねて一友からニャルラトホテプ自身につい
て、またかれの啓示のなかにある、
ていたわたしは、かれの極奥の神秘を探りぬかばやという熱望でこころが
た。友人によればそうした啓示は、わたしの最も狂熱的な空想を
じくかつ印象づよいものであり、暗くした部屋のスクリーン上では、ニャルラトホテプを
いてなんぴとも予言するをはばかることどもが予言され、かれの
うちに、かつて奪われたことなきものを人は奪われてしまうが、
かるとの話だった。さらに、ニャルラトホテプを
らしい、さようにほのめかす噂も広きにわたって聞かれたのだ。
頃しも暑熱さりやらぬ秋、わたしは安息なきひとびとの、ニャルラトホテプに会いにゆく
群れに投じて夜陰のなかを、
しれぬ階段を昇り、息苦しい一室にはいった。しかして見た、スクリーンに映ぜられるお
ぼめかしい
闘っているさまを。いや
冷えまさりゆく太陽のめぐりで急旋し、激転し、苦戦悪闘している世界。と、その時、 わ
れわれの
まに、言葉で伝えきれぬほどグロテスクな影どもあらわれいでて、
た。そこでわたしが、ほかの誰よりも冷静で科学に
がらも「こけ
みな追い立てて、
夜の
ものかと
つねと変わらずに
の光が薄らぎはじめた時には、電力会社への悪態をいくたびとなく繰りかえしつき、ま
た、たがいの妙にゆがんだ顔をみて笑いあった。
あかりを頼りにあるき始めれば、思わずしらず奇異な隊伍をくんでいて、
考えもせぬに行き先はこころ得ているようだった。ふと舗道へと目をやったところ、
が浮いたり
電車の走っていたのをしめす
にすることとなったが、孤寂な車体は荒廃して窓
だった。地平線を
シルエットは天頂がギザギザに欠けていた。さて次には、われわれは幾つかのほそい
縦列にわかれたが、それぞれ異なる方向へとひき寄せられてゆくらしかった。ひとつは
左手のせまい路地に消え、あとにただ
一つは、
しながら降りていった。 わたしのいる列は吸いよせられるように郊外へと、
のはず、大股に謎めく原野へふみいでたとき
ある月光あびて不吉に
向への風がま二つに吹きわけていったところ、両側に壁なす雪の耀いゆえにいやまし
て黒い深淵が裂けひらいていた。まことか細くみえていかにも影うすい感じを与えなが
ら、夢うつつの緩やかな足どりで行列は深淵の中へあゆみ入ったが、あとに続くのは
ためらわれた。緑の光てらす雪原の黒い裂口に怖れを抱かされたからであり、仲間た
ちの姿を消すさい、胸さわがせな号泣の
る。さあれ、踏み留まらんとこめた力も微々たるもの、あたかもさきに去った人々にま
ねき寄せられるかのごとく、巨大な雪の吹き
ながれるていに進み、おびえ
可視の渦に吸いこまれていった。
金切り声あげるほどの感受、ことば発しえぬまでの
ぞよく
ちにわけもわからず、腐れゆく被造物はらんだ
し
弱くちらめかせる
世界という世界のかなた、
朧ろにしかみえわかぬそれらは、宇宙の
てこぞり立ち、光と闇との圏域を超えて聳えあがり
る、かずかずの聖別せられざる神殿の円柱。しかしてこの大宇宙の
にあまねく、<時>のかなたの
斉吹。
く踊るはおぎろない、陰暗な窮極の神々−−盲目にして無声無識のガーゴイルで
あり、かれらの魂の化身こそがすなわち、這いよる