ブラヴァツキーを読まなかった男

 ラヴクラフトは自身の宇宙年代記的神話世界を構築するにあたって、ブラヴァツキー夫人の『ドジアン(ジアン)の書』(『シークレット・ドクトリン』に含まれる)から直接少なからぬ要素を借りてきている、というのが長らく通説となっていたが、ダニエル・ハームズは、『エンサイクロペディア・クトゥルフ』の『ドジアンの書』の項の註記で次のごとく述べている。


ラヴクラフトは生涯ブラヴァツキーの作品に接したことはなく、彼が本を記述するのに
使った主な情報源は、友人のE.ホフマン・プライスの正統ではない解説であった」
(坂本雅之訳。一九九八年刊第二版のもの。二〇〇八年刊第三版でもほぼ同内容)


 通説と真反対のハームズによるこの解説は、実はほかならぬラヴクラフト自身の言葉に根拠を置いているのである。ラヴクラフトがヘンリー・カットナーに宛てた書翰の一通にこうある。


「時に、ブラヴァツキーの大著をお貸し下さる由、感謝いたします。深甚極まる興味をもって読むことになります。神智学関係の古典は今まで一冊も読んだことがないのでして、ええ、ずっと読もう読もうと思い続けてはいたのですけれど。……(中略)……私のあの、ジアンの書に関する仄めかし方はあるいは不器用なものであったやもしれませんが、何しろ私の“ジアン”に関する知識といえば、プライスが書翰中でその初めの方を、全くの偽作として語っていることに尽きるのですよ!」


 これは一九三六年十一月三十日附のもの、すなわちこの時点で、ラヴクラフトはその全神話作品を既に執筆済みだったという次第。ではなぜ旧来の通説がずっとほぼ鵜呑みにされ続けていたかというと、カットナー宛同日附の書翰は確かにアーカム・ハウス刊 『書翰選集』 の第四巻 (一九七六年) に見出されるものの、紙幅の都合により前半の、カットナー作 「ヒュドラ」 をネタにしたお遊び部分のみが収録され、当該箇所を含む後半部はすっぱり割愛されてしまっていたからで、それがようやく活字として衆目に触れることとなったのは、ネクロノミコン・プレスから一九九〇年刊行の、カットナー宛書翰計十通を初めて全文収録したリーフレットにおいてであった(ハームズの事典の参考図書一覧にも挙げられている)。