悪夢の這いよる夜

 (一九二〇年十二月十四日附ラインハート・クライナー宛ラヴクラフト書翰より抜萃。アーカム・ハウス刊『ラヴクラフト書翰選集第一巻』・書翰番号九十四)


 「ニャルラトホテプ」は悪夢だ――ぼく自身が実際にみた幻夢で、はじめの一節は完全に目が醒めてしまうまえに書いたのだ。このところぼくは気分が詛わしいまでにすぐれない――まる何週間もとぎれなく頭痛・目眩に悩まされどおし、それに久しく三時間が、ひとつ仕事をつづけていられる精一杯の限界だった(いまは比較的ぐあい良いよう)。お定まりの持病どもにくわえて、いつにない眼の障害が発生したためにこまかい活字の判読が不可能になった――神経と筋肉がへんにひき攣り、数週それが続いた間はさすがにちと胆をひやした。こういう調子で鬱々としていたところをおそわれたのだ、悪夢中の悪夢に――十歳のとき以来、たえて見たことのなかったほど迫真的で恐ろしい夢――その雑りものなしの忌まわしさ、気味のわるい圧しへされ感は、書きあげた幻想譚にはおぼろにしか反映させえなかったが。夢がやって来たのは真夜中すぎ、折りしもぼくは寝椅子のうえにぐったりのび切っていて、それというのも、あのブッシュのくそ頓痴気めの”詩”と格闘したあげく疲労困憊のありさまだったのだ。はじまりは、世間全般にいわく言いがたい不安が瀰漫している感じから――漠としたおぞましさに全世界があまねく覆われている気配だった。ぼくは鼠色の古化粧着を身まとい、椅子にかけて、サミュエル・ラヴマンからの手紙を読んでいるようだった。その手紙は信じられぬくらい真物さながら――薄い8 1/2 ×13 インチの用紙に、末尾の署名までみな菫色のインク――で、不吉な内容らしかった。夢のなかのラヴマンはこう書いていた。


 「ニャルラトホテププロヴィデンスに来たら必ず会いにゆかれることです。かれは恐ろしい――貴兄に可能なありとある想像を超えて恐ろしい――しかし素晴ら しいのです。ひとの心にとり憑いてあとあと何時間も離れない。かれに見せられたもののお蔭で、私はいまだ身震いがやみません。」


 ぼくは、「ニャルラトホテプ」なる名前をそれまで聞いたことがなかったけれど、誰のことをさして言っているのかは了解したようだった。ニャルラトホテプは遊歴の見世物師ないし演説家のごとき存在で、公会堂で弁じたてたり、公演によって恐怖と議論を巷にあまねく惹き起こしたりするのだ。公演は二部構成――まず、恐ろしい――けだし予言的な内容の――映画一巻を見せ、そしてそのあと科学的電気装置を用いた、なにやら尋常ならぬ実験を色々おこなう。手紙を受けとった時、ぼくはニャルラトホテプが既にプロヴィデンスにいること、またこの者こそ、一切衆生のうえに覆いかかった衝撃的恐怖の元兇であることを、思いおこしたようだった。その凄まじさに畏懼させられきった人々が声も囁きごえになって、かれには近づくな、と警告してくれたこともおもい出したようだ。けれどラヴマンの夢の手紙で心がきまり、それでぼくは、ニャルラトホテプに会いに街へといで発つべく身拵えをはじめた。細かいところはしごく鮮明――ネクタイがなかなか結べずに困ったりした――が、いいしれぬ悍ましさのために、他のすべては糢糊としてしまった。家を出るとそこかしこに目にしたのが、夜陰のなかを緩々たる足どりで歩みゆく人々、皆おびえたふうに低語しながらおなじ一つかたをさして進んでいるそのむれに、ぼくは投じた。怖じつつもなお熱望すらくは、偉大なる、冥々として不可説なるニャルラトホテプに会い、そのことばを聴かばやと。それからの筋はこびは同封の譚りとほとんど違いがないが、ただ、夢のほうは譚りほど先までつづかなかった。雪原を割って黒々と口ひらく深淵へとぼくがひき込まれ、かつて人間だった(!)影たちとともに、渦のなかで恰かも大嵐に吹かれるごとく猛旋廻したつぎの刹那、夢はおわってしまったのだった。ぼくは、盛りあがりの効果と文学作品としての仕上げとのために、不気味な結びを加筆したのだ。深淵に引きこまれる際、 ぼくは谺しわたる尖叫をはなち( 実際に声に出したはずと思ったのだけれど、おばは聞かなかったという)、そしてふっつり光景が見えやんだ。ひどく苦しかった――額がずきずき疼き、耳鳴りがした――が、ただ一つおのずと湧きおこった衝動――書くのだ、 書いてならびなき戦慄の雰囲気を保存せねばならぬ――という思いにかられて、知らぬまに燈りをつけ遮二無二書きなぐっていた。なにを書いているのかの考えはほとんど絶無で、ややあって擱筆し頭をあらった。完全に目が醒めたとき、できごとこそすべて憶えていたけれども、毛骨竦然たらしめるいらひどい恐怖感――忌まわしい未知なるものがげんに存在する、という実感は喪ってしまっていた。書いた文章をあらため見れば、一貫性があるのでおどろいた。それが同封した手稿のはじめの節をなしており、単語三つが変えてあるだけだ。あのまま、潜在意識的な状態で書きつづけていられたならよかった、と思う。すぐさま執筆を続行したものの、初始の戦慄がうしなわれ、もはや悍ましさは意識した芸術的創造の問題となり果てていたので……


ラヴクラフト作「ニャルラトホテプ
http://d.hatena.ne.jp/SerpentiNaga/?date=20090617

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