ハワード・フィリップス・ラヴクラフト「イビッド」

 「イビッドがその有名な『詩人列伝』で言っているように」――ある学生の作文より


 イビッド Ibid をかの『詩人列伝 Lives of the Poets 』の著者と考える錯誤は、これに逢着することあまりに屡々にして、ひとかどの教養を積んだ、とうそぶく人びとの間にも多々見うけらるるほどのものなれば、ここに正しておくに値しよう。一般常識の問題として弁えてしかるべきである、この作品の文責は Cf. ことコンファー Confer に帰す、などというがごときは。さて一方イビッドのものした傑作とはなにかと申せば、これ即ち世に隠れもない『前掲書 Op. Cit. 』 にほかならず、同書においてグレコ=ローマン的措辞の意味ぶかい暗流が、ただ一度きりの明確なるかたちを結んでさらけ出されたのであり――しかも、賛嘆措くあたわざる鋭さを帯びているにもかかわらず、イビッドの書いたものとしては驚くほど後期の作なのであった。ひとつの虚偽の報告がくり返し――近代書籍の数々で孫引きに孫引きをかさねられ、フォン・シュヴァインコップ Von Schweinkopf による記念碑的大著、『イタリアにおける東ゴート族の歴史 Geschichte der Ostrogothen in Italien 』(1)の上梓以前はじつに定説のごとく語られてきた――いわく、イビッドはローマ化せられた西ゴート族 Visigoth のひとりにして、アタウルフ Ataulf (2)ひきいる四四〇年ごろプラケンティア Placentia に定住の遊牧民の一団に属していたと。事実に反した記述なる点、いかに強調しても過度とは申されず、なんとなればフォン・シュヴァインコップが、しかしてかれ以降ではリトルウィット Littlewit*1(3) およびベートノワール Bêtenoir*2 が反駁の余地なき説得力をもって示してきたとおり、この絶海のはなれ小島のごとき孤客は生粋のローマ人――少なくとも、退廃し人種的混淆の進んだ時代の生みだしえたかぎり生粋のローマ人であり、蓋しかれに関しても、『ローマ帝国衰亡史 The Decline and Fall of the Roman Empire 』中ギボン Gibbon がボエティウス Boethius を指して述べた次のことばがよく当てはまったのではあるまいか――「カトー Cato やトゥリー Tully ことマルクス・トゥリウス・キケロ Marcus Tullius Cicero がわが同国の士と認めえたであろう最後のローマ人」(5)。イビッドは、ボエティウス(6)およびその同時代に生きた殆どすべての傑物たちのごとく、名門アニキウス Anicius 家の出身であり、厳正とかつは自負との斜めならざるをもっておのが家系図を遡れば、共和制ローマの全英雄にたどり着くのであった。かれの省略ぬきの正式名は――その長々しさ、仰々しさたるやローマ古来の三命名法の簡朴を失った時代のならいゆえにして――フォン・シュヴァインコップの記すところ*3によれば、カイウス・アニキウス・マグヌス・フリウス・カミルス・アエミラヌス・コルネリウス・ワレリウス・ポムペイウス・ユリウス・イビドゥス Caius Anicius Magnus Furius Camillus Æmilianus Cornelius Valerius Pompeius Julius Ibidus であり、しかしながら、リトルウィットはアエミラヌス Æmilianus を除いてかわりにクラウディウス・デキウス・ユニアヌス Claudius Decius Junianus をつけ加えており*4、かと思えばベートノワールは根本より意見を違え、正式名をマグヌス・フリウス・カミルス・アウレリウス・アントニウス・フラウィウス・アニキウス・ペトロニウス・ワレンティアヌス・アエギドゥス・イビドゥス Magnus Furius Camillus Aurelius Antoninus Flavius Anicius Petronius Valentinianus Aegidus Ibidus とする説を唱えている*5次第。
 この不世出の批評家にして伝記作者の生まれたのは四八六年、ガリア Gallia 北部における西ローマ系軍閥の支配が、フランク族 Franci の王クローヴィス Clovis(10) の手によって終焉せしめられてのち程なくのことであった。ローマ、ラヴェンナ Ravenna の両市は互いに、イビドゥスのうぶすなの地たる栄誉を担わんものとあい争う関係なれども、さあれ確かなるはかれが、修辞学および哲学の訓練をアテナイ Athenai の諸学堂で受けたこと――その一世紀まえ大帝テオドシウス Theodosius のおこなったアテナイ弾圧の度合いは、皮相浅薄のともがらによって甚だ誇大視せられているのである。時しも五一二年、東ゴート族の王テオドリック Theodoric が仁政を布いていたころ、われらがイビドゥスはローマの学堂で修辞学を教えるすがたを見せ、五一六年にはポムピリウス・ヌマンティウス・ボムバステス・マルケリヌス・バティアタリクス・バティカブリヌス Pompilius Numantius Bombastes Marcellinus Deodamnatus(11) という、なにやらけしからぬ感じのせぬでもない名の人物ともに執政官 consul の役職についた。五二六年、テオドリック逝去にさいしてかれは公生涯をしりぞき、撰述したのがのちに名を馳する傑作(その紛れもなしにキケロ然とした文体は古典的先祖がえり現象の瞠目すべき一例にして、同種のものはクラウディウス・クラウディアヌス Claudius Claudianus の韻文において開花せしめたるごとき先例があり、イビドゥスより一世紀まえのこと)なるも、のちまた晴れ舞台に呼びもどされ、宮廷修辞学者としてテオダトゥス Theodatus 、すなわちテオドリックの甥を教うることとなった。
 ヴィティゲス Vitiges による東ゴート王位簒奪のさい、イビドゥスは貶黜せられて一時囹圄の身となるも、ベリサリウス Belisarius ひきいる東ローマ帝国軍の入城(12)で程なくおのが自由と栄誉とをとり戻す機がえられた。ゴート軍の、一年あまりにおよぶローマ囲攻期間をかれは防衛軍のため勇猛果敢に戦いぬき、さてそののちはベリサリウスの鷹の旗じるしに従ってアルバ Alba やポルト Porto 、はたまたケントゥムケラエ Centumcellae へと赴いた。フランク族にミラノ Milano が包囲せられた(13)のちは、学僧ダティウス Datius 司教の随伴者に選ばれてギリシアへゆき、同司教とともにコリントス Corinthos に仮ずまいしたのが五三九年のこと。五四一年ごろにはコンスタンティノポリス Constantinopolis へ移り、そこでユスティニアヌス Justinianus とその甥ユスティヌス二世 Justinus II の両皇帝よりあらゆる点において寵遇をうけた。ティベリウス帝 Tiberius およびマウリキウス帝 Mauricius はイビドゥスの大齢に懇ろなる敬意をあらわし、「最後の生粋のローマ人」の名を不滅ならしむるにあたって貢献するところ大にして――とくにマウリキウス帝の貢献度たるや斜めならず、それはこの皇帝がおのれの族譜を上代ローマまで辿りうるをこそ喜びとしていたがゆえ、とは申せ自らはカッパドキア Cappadocia のアラビッスス Arabissus うまれであったが。イビドゥス百一歳の年その詩魂ある作品が、帝国内諸学堂の教本に採用確定せられたのもマウリキウス帝の計らいなれど、齢たけた修辞学者の心胸には過負荷のほまれとなったと見え、聖ソフィア寺院 Hagia Sophia にちかい自宅にて大往生をとげたのは、九月のカレンズ Kalends すなわち朔日まであと六日という日(14)のこと、年は五八七年かれ百二歳のときであった。
 イビドゥスの遺骸は、イタリアの動乱甚だしきにもかかわらず埋葬のためラヴェンナへ送られたが、郊外の外港クラッセ村 Classe に葬られてあったところを、ランゴバルド王国 Regnum Langobardorum のスポレト Spoleto(15) 公があばいて愚弄し、その頭蓋骨のみを取りあげて、ランゴバルド王アウタリ Authari(16) へ酒ほがいの大杯として献上した。イビドゥスのどくろ杯はランゴバルド一統の王から王へと代々、誇りかに手わたしにてうけ継がれた。七七四年、フランク王国 Regnum Francorum のシャルルマーニュ Charlemagne がランゴバルドの首都パヴィア Pavia を攻奪したさい、どくろ杯は命運かたぶいた国王デシデリウス Desiderius のもとより劫掠せられ、征服者の郎党らの手で運ばれた。まことこの「器」より聖なる香油を注いで、八〇〇年、教皇レオ三世 Papa Leo III はつつがなく戴冠式を執りおこない、もってくだんの遊牧民の英雄を、新生にして神聖なる西ローマ帝国の皇帝となしたのである。戴冠せるシャルルマーニュは、この「器」をフランク王国の首都エクス=ラ=シャペル Aix-la-Chapelle まで携えていったが、のち程なくおのが教師であるサクソン人 Saxones アルクイン Alcuin へ贈与、八〇四年アルクイン死去のさい、イングランドにいたその親族のもとへイビドゥスの頭蓋骨はとどけられた。
 征服王ウィリアム William the Conqueror がこの貴き頭蓋を見いだしたのはとある修道院の壁龕のうち、信仰篤きアルクインのうからにより(祈りもてランゴバルド族を殲滅するの奇蹟をおこなった一聖人*6の遺骨の頭部と思いこまれて)安置せられていたもので、征服王はこれに崇敬の念をあらわし、さてはクロムウェル Cromwell の粗野なる兵士らですら、一六五〇年アイルランドのバリロッホ大修道院 Ballylough Abbey 破壊のさい、(ひとりの敬虔なる教皇制信奉者、ひらたく申せばローマ・カトリック教徒が一五三九年、おりしもヘンリー八世 Henry VIII の命によるイングランド各地のカトリック修道院解体の進むさなか、密かにそこもとへ移送していた)かくも森厳なる聖遺骨に対しては、狼藉など苟めにもはたらきかねたのである。
 貴き頭蓋はこれを一兵卒、「涙目の読み手」ホプキンズ Read-’em-and-Weep Hopkins(17) が掠めとり、程もあらせず、「イェホヴァの御胸のいこひ手」スタッブズ Rest-in-Jehovah Stubbs の、ヴァージニア産噛み煙草 Virginia weed 新品ひと口ぶんと交換してしまい、さてスタッブズは、おのが息子ゼルバベル Zerubbabel を一六六一年、ニューイングランドにてひと旗揚げしむべく送りだした(と申すのも蓋し、王政復古の空気は敬虔なる自由民 yeoman のわこうどにとりて悪しきものと考えたゆえであったが)そのさい、この「聖者イビッド上人 St. Ibid 」の――いな、一切のカトリック的なるものを嫌忌した清教徒スタッブズの呼びかたでは「信徒イビッド大兄 Brother Ibid 」の――頭蓋骨をば、闢邪の宝具として息子にあたえたのであった。セイレム Salem へ上陸したゼルバベルがこれを安置たてまつったのは暖炉わきの戸棚のなか、町の揚水場ちかくに大きからず小さからぬ家を構えてのことであったが、「家ごとの戸棚に秘めた曝れこうべ Every family has its skeleton in the cupboard. 」という慣用句のもととなったかの一見無憂なる夫人のごとく、毎夜頭蓋骨への接吻を義務づけられていたかまでは詳らかにせぬ。しかすがに、このわかき自由民も王政復古の悪影響から完全に自由ではありえず、博戯に熱を上げるようになったあげく、プロヴィデンス Providence 公民 freeman のエペネタス・デクスター Epenetus Dexter なる名の来訪者との賭けに負けて、イビッドの頭蓋骨を手ばなすはめに陥った。
 かくて貴き頭蓋はデクスター邸、プロヴィデンスの北部、現在の北メイン街 North Main Street とオルニー街 Olney Street との交叉部ちかくの家(18)の所蔵となっていたが、白人入植者とアメリカ先住民 American Indians との争い、いわゆるフィリップ王戦争 King Philip’s War のおりから、一六七六年三月三〇日同邸はナラガンセット族 the Narragansetts の酋長カノンチェット Canonchet の奇襲をうけ、目ざときカノンチェットは一見、この頭蓋の稀世にして森厳きわだかなるを認むるや、ただちにこれを同盟締結の交渉中であった相手、コネティカット Connecticut 在のピクォート族 the Pequots の一派に誠意のしるしとして贈った。四月四日、入植者らにカノンチェットが捕えられ速やかに処刑せられたのちも、なおイビッドの綾にかしこき顱骨は転々流浪をつづけるのであった。
 ピクォート族は先のひと戦さで弱体化していたがゆえに、いまや酋長を失うの大打撃をこうむったナラガンセット族に対しなんらの支援もなしあたわず、畢竟意味のなかった進物品のその後はと申せば、一六八〇年、オランダ植民地ニューネザーランド New-Netherland はオールバニー Albany の毛皮商人、ペトルス・ファン・シャアク Petrus van Schaack の僅々二ギルダー two guilders 、すなわち二百セントばかりの出費にて確保するところとなったのであり、ファン・シャアクはこの著しくかたち秀でた顱骨に記されていた、ランゴバルド王国時代のミナスキュール草書体 Lombardic minuscules の銘文により価値のほどを認めたのであった(古文書学については蓋し、十七世紀ニューネザーランドの毛皮商人にとって欠くべからざる教養のひとつであった、と説明すれば宜しかろうか)。宛然尺蠖虫の這いうねるがごときその文字列は、薄れ消えかけていながらも次のとおり読みとられた――“ Ibidus rhetor romanus (羅馬ノ修辞学者いびどぅす)”と。

 語るも悲しきことながら一六八三年、ファン・シャアクのもとより聖遺骨を盗みいだした者があり、フランス人貿易商にして名をジャン・グルニエ Jean Grenier とよぶ犯人の男は、狂熱的なるカトリック教徒ゆえそのうえにまざまざと認めたのであった、母の膝もとで敬慕の対象としておしえ聞かされてきた、「サンティビード上人様 St. Ibide 」のおもかげを。グルニエはかくも聖なる「御かたち」が、プロテスタントに占有せられてある不条理に憤怒の猛火を燃えあがらせ、ある夜、斧撃一閃ファン・シャアクの脳蓋を砕きさり、略奪品とともに北のかたへ逃走するも、あわれ程なく、アメリカ先住民と白人とのあいだに生まれ毛皮会社の運び手をつとむる、マイクル・サヴァード Michel Savard の凶刃のもと「御かたち」も命も失ってしまい、サヴァードは奪った顱骨を――目に一丁字なきゆえに誰びとの頭部なるかこそ認識しえなかったとは申せ――それと似たたぐいの蒐集品群に加うることにしたが、いずれも比較的輓近のものばかりにして、イビッドの厳かなる頭蓋の古ぶるしさには及ばなかった。
 一七〇一年サヴァード死去のさい、やはり血の半分ことなる息子ピエール Pierre はサック族 the Sacs やフォックス族 the Foxes の、特使数名との物々交換において聖頭蓋骨をその他もろもろの品とともに放出、ひと世代ののち、これが族長の起居するティピ tepee 、すなわち円錐形の帳篷のかたわらに野ざらしに放置せられてあるを見いだしたシャルル・ド・ラングラード Charles de Langlade 、ウィスコンシン Wisconsin のグリーンベイ Green Bay における先住民との交易所の開設者は、この褻涜すべからざる「御かたち」を相応しき崇敬のまなざしもて瞶め、硝子の数珠玉あまたとひきかえに無事確保、かくてまた白人のもとに購いもどさるる次第となったイビッドの頭蓋骨であるが、爾後もなお、あまたの売り買いの手をヘて土地より土地へ転々とし、時にウィネバーゴ湖 Lake Winnebago のみなもとに接する植民地にあらわれ、時にメンドータ湖 Lake Mendota 周辺の部族の集落へながれ、果てに一九世紀初頭、ソロモン・ジュノー Solomon Juneau なるフランス人の手に落ちたのはミルウォーキー新交易所 the new trading post of Milwaukee 、メノミニー河 the Menominee River の沿岸にしてミシガン湖 Lake Michigan のほとりなるあたりの施設においてであった。
 さらにのち、ジャック・カボーシュ Jacques Caboche なるまた別の入植者が買い手となるも、一八五〇年に賭けチェス、ないし賭けポーカーで負けてゆずり渡した相手はハンス・ツィンマーマン Hans Zimmerman と名のる新来者にして、聖頭蓋骨を麦酒をあおる杯に用いるの挙におよんでいたが、ある日一パイントの蠱惑に陶然とするあまり、骨杯が自宅入り口の階段より正面の草道へまろび出るのを許し、あげく土掻き鼠 prairie-dog の巣穴のひとつへと落ちこまれてしまったため、酔いの醒めたさいには発見も回収もままならなかった。
 かるがゆえにいく世代ものあいだ、この神聖視せられたる顱骨、すなわちカイウス・アニキウス・マグヌス・フリウス・カミルス・アエミラヌス・コルネリウス・ワレリウス・ポムペイウス・ユリウス・イビドゥス Caius Anicius Magnus Furius Camillus Æmilianus Cornelius Valerius Pompeius Julius Ibidus 、古代ローマの執政官にして諸皇帝の寵臣、さらにはローマ・カトリック教会の聖者なる人物の頭蓋は、都市の発展してゆく土壌のしたに隠れてねむっていた。初めは土掻き鼠どもが昏き儀式のうちにこれを伏しおろがんでおり、蓋し単純素朴なる穴穿ちのうからの目には上界より遣わされし神的存在と映ったがゆえながら、のちには薄情にも顧みなくなりはてた、と申すのもかれらは征服をつづけるアーリア人 Aryan の圧倒的猛攻のまえに屈しつつ、どくろ崇拝どころではなくなっていったからである。下水道が設けられたが、送水管は「ご神体」のかたわらを掠めて過ぎた。家屋敷がつぎつぎと建てられ――軒数二千三百三、いなそれ以上をかぞえ――かにかくてついに運命のある夜、尋常ならざる一大事件が発生した。玄妙なる自然が霊的恍惚にうち震え、従前かの「器」を満たせしこともある飲料の弾ける泡のはたらきのごとく、高貴なるものはこれをひき倒し低からしめ、下賤なるものはこれをひき上げうず高くならしめて――しかしてご覧ぜよ! 薔薇の指さすあかつきにミルウォーキー市民らが起きいでてみれば、なんと、草野原であったはずのあたりは高地と変じているではないか! 広漠として遥けくつづくその隆起のおぎろなさよ。いく年ものあいだ隠されてきた地底のアルカナ arcana 、極秘密がいまや明るみにさらされてあった。蓋し申すにやおよぶ、そこもとの裂けた車道のうちに全容をあらわしていたのである、白じろとして鎮もり、聖者然としておおどかにまた執政官らしく厳かに、壮観あたかも大伽藍のごときイビッドの頭蓋骨が!(終)


[原註]
 *1 『ローマとビザンティウム――遺物の研究 Rome and Byzantium: A Study in Survival 』 (ウォーキショー Waukesha 、一八六九年)、第二十巻五九八頁。
 *2 『中世における古代ローマの影響 Influences Romains dans le Moyen Age 』(フォン・デュ・ラク Fond du Lac 、一八七七年)、第十五巻七二〇頁(4)。
 *3 プロコピウス Procopius 著『ゴート人 Goth 』、x・y・z(7)による。
 *4  ヨルナンデス Jornandes 著、『ムラト写本 Codex Murat 』、xxj・4144(8)による。.
 *5  『パギ Pagi 』、50―50(9)による。
 *6 一七九七年フォン・シュヴァインコップの著作が世にあらわれて漸く、「聖イビッド」とローマの修辞学者イビドゥスとは再び正しく同一視せらるるに至ったのである。


[S・T・ジョシ S.T.Joshi 註]
(S・T・ジョシおよびマーク・A・ミショー Marc A.Michaud 編『ラヴクラフト未収録詩文集第二巻 H.P.Lovecraft Uncollected Prose and Poetry II』 (ネクロノミコン・プレス Necronomicon Press 、一九八〇年)より)
 (1)架空の著者および著書。
 (2)アラリック Alaric の義弟。アラリックは四一〇年西ゴート族がローマを劫掠したさいの指導者。
 (3)明らかにラヴクラフトの筆名ハンフリー・リトルウィット Humphry Littlewit と無関係ではなく、無論著書も実在しない。
 (4)架空の著者および著書。 “…le Moyen Age” は “…au Moyen Age” としたほうがフランス語的にはよい。
 (5)『ローマ帝国衰亡史』第三十九章より。
 (6)かれの非省略名はアニキウス・マリヌス・トルクァトゥス・セウェリヌス・ボエティウス Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius 。
 (7)東ローマ帝国の史家(五〇〇年頃―五六三年以後)。おそらく著書『ユスティニアヌス帝戦史 History of the Wars of Justinian 』の五巻から七巻、ゴート族との戦いを扱ったあたりを指すか。
 (8)ゴートの史家(五五一年に活躍)。引証は架空。
 (9)おそらく捏造。あるいは『パギ Pagi 』とは書きあやまりで、『ラテン語称賛演説集 Panegyrici Latini 』による引証のつもりであったか。もっとも同集のうちに、問題の時代を扱ったものはひとつもない。
 (10)四八六年にクローヴィス麾下のフランク族は、「西ローマ」帝国の属州ガリアの最後の支配者、シアグリウス Syagrius をうち破って殺した。
 (11)“Deodamnatus” というラテン語は英語の “god-damned(罰あたりの罰かぶり)”に相当する。
 (12)五三六年。
 (13)五三八年。
 (14)すなわち八月二十七日(古代ローマ人はまとめて数えていた)。
 (15)ランゴバルド族がイタリア中東部のスポレトを占領したのは五七五年ないし五七六年。
 (16)ランゴバルド族の王。在位五八四年から五九〇年。
 (17)清教徒命名法に対する、ラヴクラフトのおひゃらかしぶりを参考までに――「「神の称え手」ベアボーンズ Praise-God Barebones 、すなわちクロムウェルの反逆議会の指導的狂熱的成員であった人物が、その父より一歩さきを進んでわが息子につけた名前は、「イエス・クリスト汝がために死したまはざりきとも汝常住呪ひのうけ手 If-Jesus-Christ-had-not-died-for-thee-thou-hadst-been-Damned 」! 息子はじつに幼年期よりずっとこの名で通してきたのだが、長じて博士号を取るにおよび、仲間から今度は思いきり端折られてこう呼ばれたのである、「呪ひのベアボーンズ博士 Damned Dr. Barebones 」と!」(〈ザ・ユナイテッド・アマチュア The United Amateur 〉誌一九一五年九月号「世評欄 Department of Public Criticism 」より)
 (18)「(註・ジョゼフ・カーウィンは)オルニー・コートの崖下にあたるグレゴリー・デクスターの家の北隣に地所を買い入れることで、プロヴィデンスの自由民の資格を取得した。住所は、現在のオルニー・コート、当時の名称でいえばタウン街(註・すなわちメイン街)の西、スタンバーズ・ヒルの上に建てた。一七六一年にいたって、おなじ敷地に、より大きな邸宅を建て直して、これがいまだに存在しているのだった。」(ラヴクラフト「チャールズ・デクスター・ウォードの奇怪な事件」(宇野利泰訳)、第二部第一章より)


Ibid by H. P. Lovecraft http://www.hplovecraft.com/writings/texts/fiction/ibid.asp

翻訳文書館 ラヴクラフト「イビッド」(両世界日誌のsbiacoさんによる訳)
http://blog.goo.ne.jp/sbiaco/e/dd51d60bef99a11f088bb10f50029945

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